2017年1月8日 イエスのバプテスマ

クリスマスツリーは片付きましたが、教会歴では降誕節が続きます。クリスマスは神ご自身が人間となって、私たちのもとに来られたことを覚える時期です。それは赤ちゃんイエス様の誕生をお祝いするにとどまりません。イエス様が私たちと同じ空気を吸って成長し、この地上を歩まれたことに思いを馳せます。ですから降誕節では、福音書を通してイエス様の歩みを見てまいります。

マタイ 3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

短いですが、大変重要な箇所です。イエス様がバプテスマをお受けになった場面で、このマタイ福音書だけでなく、他の三つの福音書、マルコ、ルカ、ヨハネにも記されています。このバプテスマ以降を公生涯と言います。公に人々の前に現れて活動する歩みが始まります。

3章13節を見ますと、イエス様はガリラヤから来られたとあります。ガリラヤはイエス様が成長されたナザレ村がある地方です。イエス様のことをしばしば「ナザレのイエス」と呼ぶことがあります。ナザレは特別な町ではありません。この藤ヶ谷の地のように、どこにでもある普通の小さな町でした。イエス様はそこで、マリヤとヨセフ、そして村の人たちに囲まれて育ちました。

説教では主に福音書を扱っています。それは福音書が、福音そのものであられるイエス様のご生涯を記しているからです。皆さんは小さい頃に偉人伝などを読まれたことがあるでしょうか。うまく書けた伝記を読むと、その人物の姿が目に浮かぶように分かります。福音書はまさにイエス様の伝記です。ぜひ福音書を通して、イエス様のご生涯、その教えだけでなく、その歩みのお姿をイメージできるようになって頂ければ、と思います。へブル書を見てみたいと思います。

ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は神の子であられましたが、私たちとかけ離れたスーパーマンではありません。私たちと同じ空気を吸い、育ち、人々との交わりを楽しまれました。その中で、世のさまざまな苦しみや不条理も目の当たりにされたはずです。私たちの置かれている状況を、身をもって経験されたのです。

イエス様が私たちのただ中に、インマヌエル、神共にいます方として来られました。その極め付けが十字架です。イエス様は十字架上で「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。信頼している人に裏切られる、見捨てられる経験ほどつらいことがあるでしょうか。神の子であるイエス様はそれを経験されました。ご自身と一つであった父なる神に見捨てられた、それが十字架でした。その後、三日後に復活させられますが、しかしこの十字架は、イエス様がもっとも大きな苦しみを受けた瞬間でした。

このイエス様はまた、私たちと同じようにバプテスマをお受けになりました。バプテスマのヨハネから受けたのですが、この人物は以前扱いましたので本日は触れません。今日はただ、イエス様がバプテスマを受けられた、という事実だけに着目していきます。

特に日本では周りと同じでなければならない、という圧力が強いと言われます。周りと同じでないと恥ずかしいという雰囲気さえあります。そういう意味では、人口1パーセント以下の、私たちクリスチャンは、典型的な変わった人たちということになるでしょう。バプテスマを受けて教会に加わることは、ヨーロッパやアメリカのような国々とは違う、大きな決断となります。

波風を立てず普通の生活を送りたいと人は求めます。しかし普通とは何でしょうか。何が普通であり、何が普通でないのでしょうか。聖書に照らしてみるならば、また神の目から見るならば、クリスチャンになるとは、普通の人間になることです。クリスチャンこそが人間として本来の姿であるということです。

私たち人間は、神と交わり、神を礼拝する者としてもともと造られました。しかし罪によって、神との関係が切れてしまいました。多くの人たちは神などいないと考え、神を無視して生活しています。しかしそれは、決して人間本来あるべき姿ではありません。たとえ周りの多くの人々がそうであっても、決して本来の姿ではないのです。

クリスチャンになるとは、人間として正しい姿に戻ることです。そしてイエス様はその正しい人間のあり方を、バプテスマを受けることによって、身を持って示されました。バプテスマは古い自分に死んで、神によって新しく生まれたことを表します。神無き人生から、神を見つめ、神に見つめられた人生への転換を表すものです。まったき人間になることです。イエス様は、このまったき人間としての模範を示すために、バプテスマをお受けになられました。ここでもう一度3章15節をご覧ください。

マタイ3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

これはイエス様がバプテスマを受ける時に、ヨハネと交わした会話です。バプテスマを受けることは正しいことだ、とイエス様は仰っています。バプテスマを受けることは人間として正しいことだと言うのです。まったき人間、正しい人間というと、少し固いイメージがあるかもしれません。背筋をピンと伸ばしていないといけないような感じがします。しかしそうではありません。

マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

「天が裂けて」とあります。これはまさに神ご自身の、イエス様に対する思いが表れている情景です。「胸の張り裂けるような思い」、という言葉があります。天というのは神のご臨在を表す言葉です。天が裂けるという言葉は、イエス様に対する父なる神のご愛が、まさに胸が張り裂けんばかりの思いがはじけている、そんなイメージです。

父なる神の熱い思いが張り裂けて、イエス様の上に鳩のように降りてきました。鳩は平和をイメージする鳥です。神の愛は鳩がイメージするまったき平和、まったき平安をイエス様に注ぎました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声と共に、です。

イエス様は人間のあるべき姿を私たちに示されました。その本来の姿とは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という神の声にいつも耳を傾けていることです。イエス様は公生涯の始めにこの声を聞き、また日々の祈りの中でこの声を何度も聞き続けました。それがイエス様の歩みを支えました。この声は、私たちクリスチャンの耳にも届けられています。バプテスマを受け、クリスチャンとして歩みだした私たちにも語られている言葉です。

私たち人間が本当に求めているものとは何だろうか、と思うことがあります。それはベタな言い方ですが、やはり愛ではないでしょうか。私たちは誰であっても、つまるところ、人から愛されている、人に必要とされている、人に認められている、人に関わりを持ってもらっている、という実感によって生きられるのだろう思います。それが失われたとき、どんなに強そうな人であっても、ポキッと折れてしまうのです。

ご承知のように、私たち家族はまもなく、この教会から、また教会が属する群れの交わりから、またこの地域から離れることになります。そのために、少しずつ色々なところから距離を置きつつあります。少し前に、4年近く続けた英語教室を終え、これまた4年近く続けた家庭教師を一か所終えました。一応は教える立場であった訳ですが、むしろ教えられる立場の皆さんに支えられてきたことを実感します。私たちは誰でも、互いに互いを必要としています。求め求められる関係、愛し愛される関係が必要です。

しかしまた、私たちの人間関係や愛には限界があることも事実です。やむを得ない事情で分かれなければいけないことがあります。心が離れていくということもあれば、物理的に互いの場所が離れてしまうこともあります。どれほど親しい人同士であっても永遠にともにいることはできません。人の罪も私たちの関係を壊します。罪によって入ってきた死が、私たち人間同士の関係に限界があることを示します。

ですから、私たちには限界を超えた愛が必要です。何があっても、どんなことがあろうとも、決して取り去られることのない愛の関係が必要なのです。そんな私たちが聞くべき言葉、それが「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という神の呼びかけです。イエス様はこの言葉を聞いて、また聞き続けて、その働きを、十字架の死に至るまでまっとうしました。

父なる神は、私たちにも同じ言葉をかけておられます。神が私たち人間をおつくりになったのは、私たちにその言葉をかけるためでした。本来、私たちすべての人間に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という言葉が掛けられています。私たちは誰一人、無意味に捨て置くためにこの地上の生を与えられていません。神はすべての人にこの愛の声を聴き、その中に安らって欲しいと願っています。天国はそのようなところです。

聖書は罪ということを語ります。私たち人間は罪人だと。罪とは何でしょうか。それは神を神としないことです。神を無視していることです。どんな神をでしょうか。それは「私たちを愛してやまない」神をです。神は私たちすべての人を愛しておられます。イエス様を十字架にかけるほどに愛しておられるのです。私たち一人一人に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と声をかけておられます。しかし残念ながら、多くの人が耳を塞いでしまっています。

もし皆さんが、まったくの善意で誰かにプレゼントしようとしたとします。しかしその人が、いやいや、自分はそんなものをもらうに値しないので要りません、と断ったらどうでしょうか。大変失礼なことではないでしょうか。その断った人は、こちら側のまったくの善意を信じていないのです。

神の愛を受け取らないのも同じことです。神から、「あなたは愛しているよ」と声を掛けられているにも関わらず、その声に耳を塞ぐことは、神に対して大変失礼なことになります。神の愛を信じないこと、それこそが罪の本質です。

神は、そのひとり子イエス様をこの世に送り、十字架にかけて犠牲にされました。それは私たちが神の愛に気づくためです。そしていつまでもいつまでも、私たちがその愛を受け入れるように待っておられます。ちょうど放蕩息子のたとえ話の父親のようにです。私たちは皆、放蕩息子のように父親の元を離れていきました。そして放蕩の限りを尽くしているかもしれません。しかしその放蕩三昧に耽っているその瞬間も、父なる神は変わらずに家に帰ってくるのを待ち続けているのです。

本物の愛は行動が伴うものです。イエス様の十字架を仰ぎ見るとき、そこに神の愛がはっきりと示されています。何とかしてご自分の愛を私たちに受け入れて欲しいと願い続けています。皆さんは神をどのようなお方としてイメージしておられるでしょうか。

今日はイエス様がバプテスマを受けられる場面を通し、神の愛について共に教えられました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声に感謝をもって耳を傾けつつ、この一週間も過ごして参りたいと思います。