2017年1年1月 エジプト逃避行

新年あけましておめでとうございます。先週はクリスマス礼拝でしたが、本日もまだクリスマスツリーが飾られています。教会では伝統的に、12月25日から1月6日までをクリスマスの期間として祝ってきました。そしてクリスマスこそが教会では新しい年の始まりなのです。それではさっそく本日の箇所を読んでいきたいと思います。

マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

クリスマス物語に欠かせない、東方の博士たちの場面です。聖書には、お生まれになったイエス・キリストを最初に礼拝した人たちとして、羊飼いたちと共に、この博士たちを記しています。

彼らは東方、つまり東の国からやってきました。具体的にどこの国かは分かりません。しかしおそらくバビロンであろうと言われています。かつてイスラエルの民はバビロンに捕囚となって住んでいました。その時、バビロンの人々、特に学者たちはイスラエルの民が大切にしていた旧約聖書について学んだはずだからです。ともかく、この博士たちは何週間、何か月と、長い時間をかけて旅をしてきたのでした。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

博士たちは天文学の学者たちでした。天文学と言ってもこの時代は占星術、つまり星占いと結びついていました。博士たちはいつものように星を観察していました。するとある時、いつもとは違う星が輝いているのを見つけました。彼らはそれをユダヤで新しい王が生まれる印だと受け取ったのです。

博士たちがどれだけ聖書の知識があったのかはわかりません。大切なのは、彼らが星の出現という神の不思議な助けを頂いたことです。それによって博士たちは救い主、ユダヤの新しい王の誕生を確信しました。そして礼拝するためにわざわざ旅してきたのでした。

長い旅路の末、ようやくユダヤに着いた博士たちは、まずエルサレムのヘロデ王のところに行きました。「ユダヤの王」というからには、やはり首都エルサレムに生まれたと考えたのでしょう。当時ユダヤを治めていたヘロデ王のところに行って、どこで生まれたのか尋ねました。

しかしヘロデ王は大変驚き、また恐れました。それは当然でしょう。新しい王と言っても、自分の後継ぎの王子が生まれた訳ではありません。自分の知らないところで別の王が誕生というのです。異国の博士たちが遠くからやってきたことからしても、信憑性が高そうです。王は焦りました。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

ヘロデ王は自分の国の祭司長や学者たち、つまり聖書の専門家を集めました。そして東方の博士たちが言う新しい王がどこで生まれるのか、調べさせました。祭司長や学者たちはヘロデ王に、ベツレヘムの町で生まれることになっていると告げました。王はそれを聞くと、博士たちをまた呼び寄せました。いつ頃生まれたのか知るために、彼らが見たと言う不思議な星がいつ出現したのかを聞き出しました。そしてベツレヘムに送り出したのでした。

先ほど、東方の博士がエルサレムに着いたとき、王だけでなく人々も恐れたとありました。残酷なヘロデ王とはまた別に新しい王が出てくるということは、権力争いになるかもしれません。そうすると内戦が始まります。権力争いに巻き込まれ、戦争になって苦しむのは一般市民たちです。この時点では、まだヘロデ王も町の人々も、その新しい王がどんな人物なのかよく分かっていませんでした。そんな彼らを後にして博士たちは出かけてゆきます。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

博士たちはついに幼子イエス様のところに到着しました。そしてひれ伏して、宝物を捧げて礼拝しました。東方の博士たちは大の大人、そして言うなればインテリのエリートです。そんな博士たちが幼子にひれ伏し、高価な宝物を捧げたのでした。

この時、イエス様がお生まれになって、すでにしばらくの時間が経っていました。聖書をよく読むと、誕生から2か月以上、長ければ2年ぐらい経っていたことが分かります。しかしそれでも、まだまだ小さな幼児です。今風に言えばまだオムツが取れていません。ギャーギャー泣きわめく、小さな小さな幼子です。ヨセフやマリヤに四六時中世話されています。そんな幼子に向かって博士たちが礼拝を奉げたのでした。

私たちはここでも、クリスマスの大切なメッセージを見ることができます。それは、神が私たちのために小さく無力なものになられた、ということです。博士たちははるばるイエス様に会いに来ました。しかし威厳に満ちた姿とは程遠く、「ご苦労様」というねぎらいの言葉も出せません。ただわあわあ泣いているだけだったでしょう。博士たちの目に飛び込んできたのは、オシメを変えてもらったりお乳を飲んだりしているごく普通の幼子でした。

赤ちゃんというのは、まさに私たち人間の弱さや無力さを象徴しています。私たちは大人になっていくにつれて、強くなることが求められます。独立独歩で自分で何でもできることが大切であると教えられます。しかし人間というものをしっかり見つめれば、私たちは弱さや無力さから目を背けることができません。私たち誰でも周りの人たちの助けによって日々生かされています。また、時に理不尽とも言える災害などに会ったとき、人間の弱さを思い知らされます。そして弱さの究極として死があります。

クリスマス物語は大抵、博士たちが自分の国に帰っていくところで終わっています。しかし聖書には続きがあります。

マタイ2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。
2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

送り出した博士たちが帰ってこないが分かったヘロデ王は、何と、ベツレヘムに兵隊を送り、小さな男の子を皆殺しにしました。これが聖書の語るクリスマスです。イエス様の誕生には、とんでもない悲惨が伴っています。しかしこの悲惨は、イエス様が将来、権力者たちによって十字架に追いやられることを暗示するものです。

イエス様の生涯すべてが神の御心を表しています。そして幼子イエス様を殺そうとしたヘロデ王やイエス様を十字架につけた人々は、まさに私たち全人類を表しています。彼らはイエス様が邪魔でした。イエス様がいると自分たちの立場が危うくなると考えたのです。そして殺そうとしました。

私たちはまさかイエス様を殺そうとは思わないでしょう。しかしもし自分がヘロデ王の立場だったらどうだろうか、と考えて頂きたいと思います。守るべき自分の立場があり、そしてそれを脅かすライバルを蹴落とす力があればどうでしょうか。私たちもヘロデ王に成りかねないのではないでしょうか。

イエス様はこの世の悲惨のただ中に来られました。しかしその悲惨は私たち自身が生み出したものでもあるのです。私たちの心に住んでいる「内なるヘロデ」です。その罪を背負い、十字架で犠牲となったイエス様によって、私たちは救われなければなりません。イエス様は私たちを罪から救うため、私たちの罪の犠牲になるために来られました。私たちに対する神の愛です。

マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

神はイエス様を通して私たちと共におられるお方となられました。私たちはそれを信じているでしょうか。私たちはそれを日々実感して生活しているでしょうか。私たちは教会でそれを経験しているでしょうか。そのために祈っているでしょうか。私たちの普段の生活も、教会生活も、すべて、この「インマヌエル」なるイエス様に掛かっています。

どんな状況に置かれたとしても、イエス様が側にいてくださると信じることができれば、必ず立ち続けることができます。そのことを覚えて、新しい一年を始めていきたいと思います。