2016年9月18日 使命に忠実に

ヨハネ10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

以前、姦淫の女の話を聞きました。姦淫の現場を押さえられた彼女は、律法に従って、人々から石打の刑を受けようとしていました。石打というのは、ケガさせるだけではありません。死ぬまで石を打ち続けるという、残酷な処刑方法です。しかし、イエス様を通し、その女は解放されたのでした。

そして今日の個所では、イエス様ご自身が石で打たれようとしています。ユダヤ人たちとありますが、これは、特にユダヤの指導者たち、律法学者やパリサイ人たちです。彼らは一体何の罪で、イエス様を殺そうとするのでしょうか。

ご存知のように、律法学者やパリサイ人たちは、イエス様を敵視していました。しかし、いくら気に食わないからと言って、殺してしまう、というのは相当のことです。皆さんの中にも、誰かと難しい関係にある、という人もおられるかもしれません。でも、普通はもう少し穏便に関わるものです。憎い相手を、街中で堂々とリンチして殺してしまうことはありません。

それは当時のユダヤだって同じです。よほどの理由がない限り、石打などもってのほかです。ですから、彼らがイエス様を皆の前で石打にしようというのは、相当の理由と考えてよいと思います。

ヨハネ 10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

先週扱いました今日のすぐ前の個所を覚えておられるでしょうか。イエス様は「わたしと父とは一つです」と仰いました。これがユダヤ人たちを怒らせました。石で撃ち殺そうとするほど怒らせたのです。彼らはイエス様に対し「あなたは人間でありながら、自分を神とする」と言いました。これはまさにその通りです。イエス様が言わんとされたことを、彼らは正確に理解しました。イエス様は自分のことを神だと宣言したのです。

ご自分のことを神だと宣言したイエス様。これは当時のユダヤ人にとって、究極の選択を突き付けるものでした。それを文字通り信じ、目の前にいるイエスという人間が、天地万物をつくられた唯一の神であることを受け入れるか、それとも、神に対する大変な冒涜をしている狂人として、石打にするか、です。旧約聖書レビ記24章には、神の御名を冒涜して石打の刑で殺された様子が記されています。

イエス・キリストは100パーセント人間であられると同時に、100パーセント神であられます。人間であると同時に神であるという、このどちらが崩れると、イエス様がご自身について宣言しておられることを捉えられません。ちょうど聖書が、100パーセント人間の手で書かれていると同時に、100パーセント神の言葉である、というのと同じです。それは人間の論理では十分理解できないとしても、そのまま受け止めるべきことです。

信仰とは、そのように、人間の理屈を超えたところがあります。そこが大事なポイントです。その曖昧さを無視して、無理にすべて理屈つけようとするとおかしなことになってきます。いわゆるキリスト教の異端と言われるものの危険はそこにあります。

彼らの聖書理解はある意味で分かりやすいです。しかしその分かりやすさとは、ちょうどある立体物を、一方向からだけ見ているような分かりやすさです。文字通り一面的で、偏った見方だけして、自分たちが神の真理をすべて分かっているかのような錯覚をしてしまうのです。

たとえばエホバの証人は、イエス様を神とは認めません。それは非常に簡単な理屈です。探知万物を創造した神は唯一である。その神は天におられる。ということは、地上を歩んだイエスが神であるはずがない。だからイエスも神の被造物の一人に過ぎない、とします。理屈としては分かりやすいです。

しかし、分かりやすすぎます。今日の個所のように、イエス様が神そのものであると示唆している個所は、聖書の中にたくさんあります。エホバの証人はそれらの個所には目をつむります。それは結局、聖書全体に向き合うのではなく、自分たちの主張が聖書よりも上に来ていることになります。

正統的なキリスト教は聖書全体と向き合ってきたために、非常に苦労してきました。さまざまな神学というのは、神の真理を聖書全体から何とか言い表そうとするさまざまな努力です。そして一つの落ち着きどころが、イエス様は100パーセント人であり、100パーセント神であるという表現です。論理的にはおかしく聞こえるかもしれません。しかし、神の真理は人間の論理を超えたところがあります。ですから私たちには信仰が必要なのです。

理屈だけで神の真理に至ることができるならば、信仰は必要ありません。私たちは、あるところで「主よ、信じます」と告白し、エイヤっと飛び越える時があります。そうさせてくださるのは神の霊、聖霊の働きです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント12章3節)とある通りです。

さて、話を戻したいと思います。自分を神とするのは冒涜だと、石をもって息巻く人々を前に、イエス様はご自分のことを弁明されます。

ヨハネ 10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
10:36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

とても分かりづらい個所だと思います。このイエス様の弁明を聞いて、なるほどフムフムと思われたでしょうか。

まず、「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか」というイエス様の言葉です。この中の「わたしは言った、おまえたちは神々である」という言葉は、詩編82編からの引用です。旧約聖書は同じユダヤ人であるイエス様とパリサイ人、律法学者たちと共通の話の土台になります。

神から遣わされた人々、たとえば裁判官や指導者は、神の代理人としての権威をもって働きます。ですから彼らは「神々」と言われるのです。ちょうどカトリック教会で、神と人々との仲立ちをする聖職者を「神父」と呼ぶのと同じようなものです。たとえば出エジプトを導いたモーセは兄アロンにとっての神となったり(出エジプト4章16節)、エジプトのパロに対して神となったりしています(同7章1節)。

イエス様はそのことを思い起こさせながら、ご自分のことを語られます。神から遣わされた人々を「神々」と呼ぶことが許されているなら、父なる神から遣わされた「神の子」である自分のことを神と呼んでいいはずではないか、というのです。

いかがでしょうか。皆さんはイエス様の言葉に納得できるでしょうか。よく考えてみますと、イエス様はここで、イエス様が本当に神そのものなのかという問いには、真正面から答えていません。神の人モーセのような人が神と呼ばれているのだから、私を神と呼んでもおかしくないだろ、と言っているだけです。

つまり、イエス様はここで、自分のことを信じない、いや信じようとしないユダヤ人たちに対し、ご自分が神であることを理屈で説得しようとしていません。人は基本的に理屈で動くものではありません。「こうだ」と思い込んだ人に対し、イエス様はその考えを無理に変えようとはなさいません。聖霊が働いてくださらなければ、人は変えられることはないのです。イエス様はまだここで石打たれ、死ぬわけにはいきません。まだその時は来ていないのです。ですから、彼らの追求をとりあえず逃れようとしたのでした。

ヨハネ 10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。

イエス様は自分を問い詰める人々に促しました。これまで行ってきた業を振り返ってみよ、というのです。イエス様がなされたことは盲人の目を開き、悪霊を追い出し、虐げられている人々を立ち上がらせました。かっかと熱くならず、冷静に、私の業について思い返し、それが神に喜ばれるものか、それとも神に反逆するものか、判断しなさいと促しました。

そしてそれは、「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るため」だと言われます。イエス様は自分が神そのものであることを受け入れないユダヤ人たちに対し、もはや説得しようとはしません。しかし父なる神とご自分とが、特別な関係であることだけは伝えようとしました。たとえその時に受け入れなくても、後になって、思い起こすことがあるかもしれません。私たちの伝道の働きともつながるようにも思います。

少なくともここでは、ユダヤ人たちはイエス様を受け入れませんでした。そして捕まえようとしました。けれども、まだ捕まるべき時はありません。イエス様は彼らの追求の手から逃れていかれました。イエス様は本当に大切な自分の使命のため、身を引くときには身を引かれたのです。

ヨハネ 10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。
10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

エルサレムから逃れたイエス様は、ヨルダンの向こうの地に行かれました。そこはペレヤという地域で、イエス様を敵対視する勢力の支配が届かない場所でした。ここでイエス様は、十字架にかかるため再びエルサレムに上るまでの短い期間を過ごしました。

ここはバプテスマのヨハネがかつて活動した地域でした。ヨハネの役割は、来るべきメシア救い主であるイエス様に人々を導くことでした。ヨハネはすでに、ヘロデ王によって首を切られてこの世にいません。しかしこの地域に残したヨハネの遺産は大きなものでした。イエス様が来たとき、ヨハネの言葉を思い出し、多くの人がイエス様を信じるに至ったからです。

ヨハネは徹底的に自分の使命に生きました。これは私たちクリスチャンの生き方の模範になります。私たちもそれぞれ神から託された使命があるはずです。ある人は牧師や宣教師として、ある人は家庭人として、ある人は企業人として、それぞれの場所でイエス様の証人としての使命を与えられています。

時に、その働きの実は、目に見える形でなかなか現れないかもしれません。でも、その人が去った後に、不思議な形で実を結ぶこともあります。他人は、また私たち自身は、すぐ目に見える成果で判断するかもしれません。しかし、私たちが求められているのは、ただ、神の使命に忠実に生きることだけです。

バプテスマのヨハネもそうですが、何よりもイエス様ご自身が、神の前に忠実に働かれました。イエス・キリストが父なる神の御心に最後まで忠実であり、十字架の死に赴かれたために、私たちは救いを頂きました。その救いを覚えて感謝しつつ、私たちもイエス様の心を心としたいと願います。

「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」(第一サムエル16章7節)。この言葉を心に留めて歩んでまいりたいと思います。