2016年9月11日 囲いの中に入れられる

先週は詩編23編より、私たちは羊飼いである神に養われている羊であることを学びました。羊と羊飼いのたとえ、それはイエス・キリストご自身もよく用いられたものでした。

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

舞台はエルサレム、時は冬の宮きよめの祭りです。例によってイエス様はユダヤ人たちに取り囲まれています。そして彼らは、イエス様に「あなたはキリストなのか」と質問しています。キリストとは救い主メシアという意味です。つまり、あなたは救い主なのか、と聞いています。何気ないやり取りのようです。しかし実は、ユダヤ人たちはこの時期、この場所で、この質問をせずにはおられなかったのです。なぜでしょうか。それは、宮きよめの祭りがポイントになります。

宮きよめの祭りについて、皆さんはあまり馴染みがないかもしれません。仮庵の祭りや過ぎ越しの祭りなどは、旧約聖書の時代から続いている祭りです。モーセによるエジプト脱出を記念して行われます。しかし宮きよめの祭りは、旧約聖書には由来しません。イエス様の時代から、ほんの160年ほど前のある出来事が由来となった祭りです。

紀元前175年、シリアの王が率いる軍隊がエルサレムに攻め寄せました。そして神殿を略奪し、ゼウスを始めとする数々の偶像を据え、ユダヤ人にその偶像を拝むように強要しました。さらに、安息日や割礼、捧げ物などユダヤ教の律法を一切守ることを禁じ、従わない者は死刑としました。神殿の聖なる光は消されてしまいました。そして、更にシリア王は自らを現人神と呼び、都に火を放ち、城壁を破壊しました。10万人以上のユダヤ人が奴隷にされたり、虐殺されたりしました。

この圧政に耐えかねたユダヤの民の中から、一人の人物が立ち上がりました。祭司の家系のユダ・マカバイです。彼は民を率いて占領軍に対して反乱を起こし、3年間の戦いの末に勝利しました。そして紀元前165年、エルサレム神殿を解放し、神への礼拝の為にあらためて献堂式を行いました。この出来事を記念して宮きよめの祭りが始まりました。また、奉献のことをヘブル語でハヌカというため、ハヌカの祭りとも言います。

このことは、旧約聖書続編と言われる第二マカバイ記に記されています。旧約聖書66巻には含まれておらず、私たちは聖書とは認めていません。しかし旧約聖書と新約聖書のあいだの時代について、どんなことがあったか知ることができます。新共同訳聖書には「続編付き」のものもあり、参考資料として読まれるのもよいかもしれません。ともあれ、なぜ宮きよめの祭りについて戻りたいと思います。

この祭りの時期、人々は特にメシアつまり救い主を待ち望んでいました。皆さんは救い主というと、「私の心の支え、平安を与えてくださる方」という感覚をお持ちかと思います。それはその通りです。しかし少なくとも聖書の時代、人々が考える救い主は違いました。あえて言えば、有能な政治家や軍事指導者のようなイメージです。彼らにとって、救いと言えば、まず出エジプトの出来事でした。エジプトの圧政下で奴隷となっていた状態から解放されたことが救いでした。ですから、来るべきメシアも、そのような人物として期待していたのです。

その点、宮きよめの祭りのきっかけとなったマカバイも、人々にとってはメシアをイメージさせるものでした。ですからこの祭りの時期、人々の中でメシアが来てくれることへの期待が高まるのです。その祭りに、イエス様が来られています。人々の中にはこのイエス様がメシアではないかと期待する人もいたことでしょう。ですから、イエス様を敵対視するユダヤ人たちは、やきもきしていました。そしてイエス様に対し、「お前が本当にメシアなわけがない。そうだと言うなら証拠を見せてみろ」という感じで突っかかったのでした。

ヨハネ 10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

ユダヤ人たちが言うことは明らかに言いがかりです。これまで何度も、イエス様はご自分がメシアであることを宣言してこられました。また、病の人を治すなどして、メシアとしての業を示してこられました。それらの業について、ユダヤ人たちも見聞きしていたはずです。しかし信じなかった、いや、信じようとしなかったのです。

なぜでしょうか。それは、彼らが羊飼いイエス様の囲いの中にいる羊ではなかったからです。イエス様の羊であるならばその声を聞き分け、従っていくはずです。

イエス様を信じるからイエス様に属しているのではなく、イエス様に属しているからイエス様を信じることができます。私たちの側からイエス様信じます!と言い、従っていったからイエス様の群れの羊になるのではありません。まずイエス様が私たちを群れの羊としてくださるからこそ、イエス様の声を聞き、信じ従うのです。イエス様の囲いの中にいることがまず大事です。

ここで記されていることは、ヨハネ福音書が書かれた当時の教会の事情が反映されています。ヨハネ福音書が書かれたのはイエス様の時代から半世紀ほど後の時代です。当時、地中海地方の各地にイエス様の福音が伝えられ、教会ができていました。しかし敵対者も少なくありませんでした。その敵対者には、異邦人だけでなく、イエス様をメシアとして認めないユダヤ人たちがいました。

ヨハネ福音書のこの箇所は、当時の教会の人たちに対し、なぜ敵対者であるユダヤ人たちがイエス様を信じないのか教えるために記されました。迫害の時代、教会に加わることは、文字通り死に至る危険もある大きな決断でした。信仰者は、たとえ死に至るような迫害があったとしても、イエス様の復活にあずかる勝利を信じています。しかし敵対者たちは、危険を冒してまでイエス様を信じ、教会に加わろうとしません。教会に加わり、イエス様の羊としての歩みを始めないので、イエス様を信じることはできないのです。イエス様の囲いの中に
あって初めて、信じることができます。

教会と信仰は切り離すことができません。新約聖書では、教会を抜きにした、個人の信仰ということは基本的に考えられていません。信仰者の仲間とともに歩む中で、信仰は育まれていきます。私たちはイエス様の羊として、羊飼いの声に聴き従いたいと願います。時に自分勝手な道に逸れてしまったり、羊同士で喧嘩したりすることもあるでしょう。違う羊飼いの声、この世の惑わしの声にふらふら付いていこうとすることがあるかもしれません。

しかし、羊飼いなるイエス様がおられるから、私たちはまったく安心です。そのことを先週、詩編23編で見ました。よい羊飼いは、その鞭で外敵を追い払い、その杖で私たちを正しい道に導いてくださいます。仮に、どこかに行ってしまっても、そのたった1匹のために懸命になって必ず探し出します。そして見つかったならば、喜びの祝宴を開いてくださるのです。「わたしはいつまでも主の家に住まいましょう」、そう詩人ダビデは言いました。私たちは永遠のいのちを与えられて、主の家に住み続けることができます。

今日の個所より少し前で、イエス様はこのようにも言われました。

ヨハネ10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

イエス様は私たちのために、私たちの罪の身代わりとなって死なれました。まさに自分を犠牲にしてでも羊を守る羊飼いです。実際、この後、イエス様は十字架にかけられて死なれます。

なぜそこまでしてくださるのでしょうか。それは、イエス様が父なる神のひとり子として親しい関係を持っておられたのと同じく、私たちとも親しい関係を持っておられるからです。子供が親の愛を知らず家出しても、親の愛は変わりません。同様に、私たちがイエス様の愛を十分受け止めていなかったとしても、イエス様は変わらず愛しておられます。私たちはそのご愛に気づかされ、それに応答して、神の子として相応しく生きたいと願います。

ヨハネ 10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

「わたしと父とは一つです」そうイエス様はおっしゃいました。イエス様を受け入れることのできる人、イエス様の囲いのうちにある羊にとって、それは大きな力です。一つとなって、私たちが永遠のいのちを生きることができるよう、守っていてくださいます。

しかし囲いの外にいるユダヤ人たちにとって、それは受け入れがたい言葉でした。まことの神を汚す冒涜だと思われたからです。こうして、イエス様は彼らによって十字架へと追いやられていくことになります。しかしイエス様の愛は、実は、ご自分に敵対する人々、ご自分を十字架に追いやるような人々にも及びます。

ヨハネ10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

イエス様の囲いの中に属そうとせず、むしろイエス様を迫害しようとする人々、そんな人々をも導きたいと願っておられます。イエス様を十字架にかけたのはそのような人たちでした。しかし、イエス様は彼らのその罪さえも用いて、十字架で彼らの身代わりの死を遂げました。イエス様は私たちすべての人間を愛しておられますので、すべての人をご自身の囲いの中に入れたいと願っておられます。一人たりとも漏れることは、イエス様の、そして父なる神のご意思ではありません。多くの方がそのご愛を知り、囲いの中に、教会の中に入れられることを願います。