2016年12月4日 神の物語を演じる

本日はアドベント第二週です。アドベントとはラテン語で「待つ」という言葉から来ています。イエス・キリストの到来を待ち望む季節です。私たちはこの期節、すでに来こられたイエス様を覚えて、クリスマスを待ち望みます。そして、イエス様がお生まれになる前の時代の人々も、同じように救い主メシアを待ち望んでいました。そのことは、イエス様がお生まれになるずっと前の時代に書かれた旧約聖書に見ることができます。

イザヤ55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

暗唱聖句によく選ばれる個所の一つです。私自身もそうですが、多くの信仰者がこの個所を通し、神への信頼を深めてきました。私たちは時に、神様なぜですか!と叫びたくなるような困難にぶつかることがあります。しかし、神の思いは私たちの考えを遥かに超えておられます。

私たちはさまざまな願いを抱きます。しかし、それらは必ずしも、神の最善の御心に沿ったものであるとは限りません。私たちの思いや願いが破れるところに、むしろ、最善の道が用意されていることもあります。普段の生活で経験する困難、また教会の様々な問題を前にして、私たちは、このみ言葉から慰めと励ましを頂くことができるはずです。私たちの教会でやっている「今月の聖句」にはちょっと長すぎますが、暗唱するに相応しい個所だと思います。

さてしかし、聖書はもともと、暗唱聖句を抜き出すために書かれた訳ではありません。皆さんが小説を読んだりドラマを観たりする時、名文句を探し出そうとして読んだり見たりすることはないはずです。小説やドラマは、いろいろな人物がそれぞれ役割を演じながら話が進んで行きます。私たちはその話の筋道をワクワクしながら追っていきます。そしてアッと驚くフィナーレを迎え、物語は閉じられていくのです。

ある意味で聖書も同じです。聖書は神の壮大な歴史物語です。物語と言っても創り話、フィクションということではありません。神がこの世界を創造された時のことから、今に至るまで、そしてこれから神がどう導いていき、グランド・フィナーレである世の終わりに至るか。これらのことが記された壮大なノンフィクションです。

皆さんはドラマや劇に参加したことはあるでしょうか。劇にはもちろん話の筋書きがあって、その筋書きを踏まえて役者たちは演じていきます。そこで役者として大切なことは何でしょうか。まず、役者はしっかり台本を読んで、話の筋書き全体を知ることが求められます。話の筋全体がどうなっており、自分は劇のどの場面で出てくるのかを確認します。

いつも真田丸のことばかりで恐縮ですが、真田丸の関連番組で、役者たちが自分にゆかりのある場所を訪ね歩くものがあります。真田ゆかりの上田や沼田、また近江や大阪などを訪ね歩き、歴史に思いをひそめます。こうして、自分が演じる武将がどんな場所でどんな人生を歩んだのかを考え、役作りに生かすのです。役者は誰でも、自分の役割を理解した上で舞台にあがるのです。

実は、私たち一人一人も、神の物語の登場人物、役者です。監督は神ご自身、台本は聖書、そして舞台はこの世界です。この歴史物語は、あえて言えば、何幕かに分けることができるでしょう。

第一幕は天地創造とそれに続く人間の堕罪がテーマです。第二幕はアブラハムやモーセ、そして預言者たちを通して示された神の救いの準備がテーマです。第三幕の主人公はイエス・キリストです。イエス様の誕生つまりクリスマスから、十字架で殺され、そして復活し天に戻っていかれるまで、です。第四幕はその後のクリスチャンの歩みです。使徒の働きからそれは始まります。そして第五幕はグランド・フィナーレ、神の救いの完成ということになります。

この壮大な神の物語の中で、私たちはどこに登場するのでしょうか。それは第四幕です。第四幕はイエス様が召天する際、「父が私を遣わしたように、私があなた方を遣わす」と弟子たちに言われた場面から始まります。イエス様から使命を与えられた弟子たち、そしてすべてのクリスチャンたちは、はじめユダヤ地方、そして地中海各地に教会を建てていきました。そのことは使徒の働きに記されています。

しかし、聖書に記されているのはそこまでです。第四幕はそこで終わり、すぐ第五幕のフィナーレに向かうわけではありません。第四幕の続きは聖書に記されていません。それは、使徒の働きの時代以降、2000年間の教会の歴史、そして、現代を生きる私たちクリスチャンに委ねられているのです。私たちは第四幕を演じているのです。

いうなれば、使徒の働きの時代以降、私たちクリスチャンは、アドリブで神の物語を演じてきたことになります。アドリブと言っても好き勝手に演じるのではありません。第一幕から第四幕の初めまでの、そして、自分たちの次に来る第五幕の台本があります。その台本をきちんと読んで、その話の筋道をきちんと理解した上で、私たちは演じます。

神が監督として導いておられる、この世界の歴史という物語には、私たち一人ひとりが必要です。たとえどんなに小さな役回りに見えたとしても、神の物語に欠くことはできません。神は私たちをその物語の登場人物にするために、この世に生を与えました。私たちは時至って、台本である聖書に、そして監督である神に出会いました。私たちは、決して神の目にどうでも良いものではありません。「あなたは私の目に高価で貴い」これもイザヤ書の言葉です。

神は将来、神の国を完成させます。第五幕、つまり神の目的にかなった素晴らしい世界が訪れます。その第五幕に向かうために、神はあえて、私たち一人ひとりをお用いになります。私たちが聖書を読み、神のその歴史の計画を知り、その御心に沿って歩んでいくとき、神はグランド・フィナーレのために私たちを用いて下さるのです。私たち一人ひとり、また一つひとつの教会を、神は必要としておられます。

しかし私たちは時に、監督である神から、そして台本である聖書から目を背けてしまうことがあります。神が導こうと願っておられる御心を無視して歩んでしまうのです。それは役者として決して良いことではありません。神の御心にそぐわない歩みは神を悲しませ、また自分自身に害を及ぼします。

それはその通りなのですが、しかし、神は決して私たちを降板させてしまうことはありません。総監督である神は、この世界の物語劇に責任を負っておられます。神は、私たちの愚かさを知りつつ役者として用いておられます。今日のイザヤ書の言葉はそのことを告げています。

イザヤ55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

イザヤ書は、「第二幕」ということになります。アブラハム、モーセと私たちは見てきました。その後、イスラエルの民は王国時代を迎えます。サウル王、ダビデ王、ソロモン王、そしてソロモン王の子供の時代に王国は分裂してしまうのです。それは王制自体の問題でした。もともと神は、イスラエルの民は王を持つべきでないと考えていました。神の民として選ばれた彼らは、王という目に見える力に頼るのではなく、神ご自身に頼るべきだからです。しかし彼らは神の御心に背いて王を立てました。そしてその神に背いた罪が、王国の分裂というかたちで現れていたのでした。

北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていたのですが、イザヤの時代、北王国はすでに滅ぼされていました。預言者イザヤは、南王国の人々も、悔い改めないならば、外国に攻め滅ぼされることを預言しました。しかし神が伝えたのは裁きだけではありません。その先にある神の救いをも人々に伝えたのでした。

果たして歴史はイザヤの預言どおりになりました。南王国はバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人々は首都バビロンに捕囚されていきました。人々は自分たちの罪の大きさを身をもつて思い知ったのです。

しかしその強大なバビロン帝国が、あれよあれよと言う間に衰退し、ペルシア帝国によって滅ぼされたのでした。そのペルシア帝国のクロス王は、ユダヤ人をはじめ、バビロンに囚われていた人々を解放する命令を出しました。こうして晴れて、イスラエルの民は自由を得たのでした。神は、異教徒の王さえも用いて、神の民を救ったのでした。

神の民は救いを経験しました。しかしそれはすべてイエス・キリストという究極の救いを指し示すものに過ぎません。今日は見ませんが、イザヤ書には、たくさんのクリスマスの預言が記されています。外国の抑圧からの解放という政治的な救いだけでなく、一人一人が真の救いを受けることのできる、神の子イエス・キリストが来るのです。そしてその預言はイザヤの時代から何百年も経て実現したのでした。

ルカ 4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」イザヤ書の預言が、イエス様によって実現しました。この方こそ、神の民のために送られた救い主です。イスラエルの民は自分たちの背信の実を刈り取らねばなりませんでした。国を滅ぼされるという憂き目に会いました。しかし神は決して彼らを見捨てることなく、責任をもって救いを用意しておられたのです。

それは私たちにとっても同じです。私たちは聖書を通し、神の御心を知らされています。しかし、私たちは知らずに、また知っていて、その御心から背を向けて歩んでしまうことがあります。神は決してそれを喜んでおられません。悔い改めて戻ってこられることを心待ちにしています。しかし、そんな私たちを神は決して見捨てることはないのです。

私の日々の歩みは、神の歴史物語をアドリブで演じていることになるのだ、と申しました。私たちの演じ方は、神の目から見てどうでしょうか。きちんと台本である聖書を読み、神の筋書きに相応しい歩みをしたいと思います。また、たとえ相応しく歩めないことがあっても、神がこの物語が素晴らしいフィナーレに行きつくよう、責任をもって導いてくださることを覚えたいと思います。

イザヤ書の時代、神の民は、イエス・キリストが初めてこの世界に来られ、救いをもたらされることを待ち望みました。現代を生きる神の民である私たちは、イエス様がもう一度、この世界に来られることを待ち望みます。その時、世界はフィナーレを迎えるのです。イエス様がすべてのすべてとなられ、私たちの救いが完成します。新しい世界が到来します。私たちの心も体も魂も、新たにされるのです。そのことを望み見つつ、神の民として、精一杯、歩みを続けていきたいと願います。