2016年12月11日 救い主はどこに来られるか

本日はアドベント第3週目です。これまでおもに旧約聖書からイエス・キリスト誕生への道備えを見てきました。今日は新約聖書からイエス様への道備えを見ていきたいと思います。

新約聖書における道備え、それはヨハネです。福音書を書いたヨハネではなく、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物です。何度か説教でも取り上げましたが、少し思い起こしてみたいと思います。

ルカ 1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

イエス様の母マリヤに御使いが訪れた場面とよく似ています。ここでは、すでに老齢になったザカリヤとエリサベツの夫妻に、男の子つまりヨハネが生まれると告げられています。このエリサベツとマリヤは親類同士でして、その意味ではイエス様とヨハネも親戚同士だと言えます。ヨハネはイエス様よりも半年ほど早く生まれました。そして大人になり活動し始めた時期もヨハネのほうが早かったのです。

ルカ 3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

大人になったヨハネは、荒野に退きました。そしてそこからヨルダン川のほとりに出てきて、人々に悔い改めを呼ばわりました。ユダヤの各地から大変多くの人たちがヨハネのもとに集まってきました。そしてヨハネの話を聞き、心打たれ、バプテスマを受けました。

そのため、ある人たちはヨハネが待ち望まれていた救い主ではないか、と考えるようになりました。旧約聖書で預言され、人々が待ち望んでいた救い主メシアではないか、と期待したのでした。それを耳にしたヨハネは驚き、自分はそんなものではない、もうまもなくやってこられる方こそ、本当の救い主なのだ、その人にこそ目を向けてほしいと訴えました。そしてついにヨハネはイエス様と出会います。

ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

実は、すでにヨハネはイエス様に出会っていました。時間の順序は逆になりますが、少しあと、ヨハネ3章にそのことが記されています。

ヨハネ 3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ヨハネがイエス様にバプテスマを授けたとき、天から声が降ってきました。そして、イエス様が神によって遣わされた救い主であることが明らかにされたのでした。その場にいたヨハネも天からの声を聴き、救い主を目の前にしている喜びにあふれ、神が遣わした神の子だと確信しました。

さて、そのヨハネですが、ほどなく舞台から姿を消すことになります。

ヨハネ 3:19 さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、
3:20 ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。

ヨハネは時の権力者によって捕まってしまいました。後に首を切られて殺されることになります。ヨハネは最後の預言者だと言われます。預言者というのは神の言葉を神から預かり、人々に告げ知らせる役割を与えられた人です。そしてどの預言者も人々、特に時に権力者から疎んじられ、迫害されました。彼らは神の言葉を人々に伝えるメッセンジャーの役割を果たしているだけですが、人々は聞こうとしません。耳に痛いからです。正しいからこそ耳を塞ぎたくなります。そして弾圧するのです。

さて、ヨハネが牢にとらわれた後、イエス様は本格的に活動を始められました。救い主として、神がもたらす救い、神の国の到来を人々に告げ知らせ始めました。獄中にいるヨハネはそれを聞いてどう思ったでしょうか。救い主イエス様の活躍を喜んだでしょうか。実は、必ずしもそうではなかったようです。ヨハネはかえってイエス様について迷いの心が生じていたのです。

マタイ11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

ヨハネは自分の弟子を使者に立て、イエス様のところに遣わしました。そしてイエス様が本当に救い主なのか、尋ねさせたのです。なぜヨハネの心に迷いが生じたのでしょうか。それは、2節にあるように、「キリストのみわざについて聞いた」からでした。つまり、イエス様が救い主としてユダヤ各地で活動していたその様子を聞いて、本当に救い主なのか心配になってしまった、ということです。イエス様はその疑問に対し、丁寧にお答えになりました。

マタイ 11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

イエス様はご自分の働きをしっかり見なさいとヨハネの弟子たちに伝えました。イエス様はご自分のなっている業こそ、福音であり、救いの到来ではないか、それをしっかり見つめないと言うのです。障害や重い皮膚病に苦しんでいる人が癒され、死んだ人が生き返り、貧しく虐げられている人が頭をもたげている、それこそ福音でなくて、救いでなくて何だ、とイエス様は言われます。また、少し後には、イエス様が人々とどんな関係を築いていたか、伺い知れることが記されています。

ヨハネ 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

これはイエス様について人々が噂していたことです。「食いしん坊の大酒飲み」とは酷い言いようです。神の子であり、罪を犯すことのなかったお方に対し、失礼極まりない言い方と感じるかもしれません。しかし人の悪口を言うにしても、まったく見当違いでは悪口になりません。「食いしん坊の大酒飲み」と聞いて、人々がピンと来るような振る舞いがあったということです。

私たちは聖書を神の言葉と信じている、と告白します。以前は聖書信仰という言い方もよくされました。聖書を私たちの信仰と生活の唯一の基準とする、そう教会の信仰告白にも書かれています。しかし私たちは実際のその告白通りに聖書を読んでいるでしょうか。神とはこういう方だ、救いとはこういうものだ、という考えが先にあって、それを聖書に読み込んでしまうのです。気づかないうちに自分の考えに合う部分ばかりを読み、考えと合わない部分を読み飛ばしていることがあります。

イエス様についても同じです。イエス様は三位一体の神であられ、神の子として罪を犯さず、きよい救い主である、そう私たちは教えられてきたはずです。もちろんそれはある面で正しいことです。しかしイエス様のすべてを表している訳ではないのです。いろいろな神学や教えは助けになりますが、何よりも聖書そのものを読む必要があります。時に、自分の思っていたことと合わない個所があったとしても、読み飛ばさずに、じっくり取り組むのです。それが聖書を信じるということです。

今日の個所では、イエス様について、はっきりと「食いしん坊の大酒飲み」だと記されています。私たちはこのような個所に出会ったならば、立ち止まり、祈りつつ、じっくり考えたいと思います。そして、たとえ自分のこれまでの考えが食い違っていたとしても、勇気をもって受け入れる必要があります。聖書を信じるとは、神が私たちを揺さぶること、挑戦することにキチンと向き合うことです。

実は、ヨハネもそんな挑戦を受けた一人でした。ヨハネはイエス様の噂について聞き、本当に救い主なのか迷いが生じました。考えが揺さぶられたのです。ヨハネは大変すぐれた人物でしたが、しかし、一人の人間としての限界がありました。当時の多くのユダヤ人と同じく、誤解の中にいたのです。どんな誤解でしょうか。それは救い主メシアがどんな方か、ということについての誤解です。

当時、ユダヤ人たちはメシアを待ち望んでいました。しかしそれは、ダビデ王の再来としての救い主です。かつてイスラエル王国の繁栄を築いたダビデのように、諸外国に負けない強いイスラエルを築いてくれる、そんな政治的なメシアです。イエス様の弟子たちでさえ、その誤解から抜け出ることはできませんでした。

イエス様が最後、十字架に掛かるためにエルサレムに向かう道すがら、弟子たちはどんな会話をしていたでしょうか。

マルコ10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

なんと、イエス様に自分を右大臣、左大臣にして欲しいと願っています。イエス様は自分を犠牲にすることで人々を救おうとするのですが、弟子たちはことがまだ理解できません。エルサレムに上って、ついにメシアとして人々の前にご自分を表し、イスラエルの王になられるのだと考えていたのです。そしてその時、弟子として従ってきた自分たちは、どんな立場を与えられるかと期待していたのでした。

弟子たちでさえこうだったわけです。いわんや一般のユダヤ人おや、というところです。ただ、バプテスマのヨハネは少し違いました。他のユダヤ人たちのような政治的なことだけでなく、人々の生き方そのものを問題としていました。かつて旧約の預言者たちは、イスラエルの国が助かるためには、人々が悔い改めなければならないと語りました。同じように、ヨハネは人々の心の有り様、そして生き方そのものを鋭く問いかけ、悔い改めを呼ばわったのでした。

しかし、ヨハネの理解はまだ不十分でした。ヨハネは人々に悔い改めを説きました。悔い改めるならば救いを見ると説いたのです。一方、イエス様はどうだったでしょうか。イエス様が語った救いとはどんなものだったでしょうか。

マタイ 11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

ここでイエス様が語っている福音は、「悔い改めなさい、そうすれば、、、」という条件付きのものではありません。むしろ、低いところにある人たち、障害や貧しさで苦しんでいる人たち、社会でうだつが上がらず、顔を上げて生きられないような人たちに、顔を上げてよいのだよと語りかけるものでした。

イエス様がもっとも激しく戦ったのはパリサイ人と言われる人々でした。彼らは「こうすればきよい」というリストを作り、それに従える人は神に受け入れられ、そうでない人は神に捨てられると説きました。「こうでありなさい、そうすれば、、、」という語り口です。そして、自分たちは高いところに立ち、守れない人たちを罪びととして見下し、遠ざけました。

イエス様は逆に、罪びとと言われる人々の中に入っていきました。食いしん坊の大酒の飲み、と呼ばれるほど、彼らのただ中に入って行かれたのです。貧しさで苦しみ、酔っぱらって憂さを晴らすしかないような彼らただ中で、神の救いを伝えたのです。イエス様はそんなご自分の歩みをこそ、ヨハネに知ってもらいたかったのです。このイエス様の姿こそ、神の愛の現れ、神の救いなのだ、ということです。

私たちにとってイエス様とはどんな方でしょうか。もし今の時代にイエス様が来られるとしたら、どこに来られるでしょうか。煌びやかなクリスマスツリーを飾り立てた大聖堂でしょうか。それとも、どう食いつないで年を越そうか途方に暮れている人々で溢れるドヤ街でしょうか。

最後に、フィリッツ・アイヘンバーグ(1901年~1990年)による作品『炊き出しの列に並ぶイエス』を御覧いただいて、説教を閉じたいと思います。