2016年11月6日 旅人アブラハム

本日は、神を信じ歩んだ一人のひとアブラハムを通し、クリスチャンの生き方について、共に聖書から教えられたいと思います。

ヘブル 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

へブル書11章には、旧約聖書に登場するたくさんの信仰者たちが紹介されています。出エジプトのモーセ、箱舟のノア、ダビデやサムエルなど、皆さん耳にされたことがある人物ばかりだと思います。その中でも、ひと際注目されているのは、「信仰の父」アブラハムです。

今日はこのアブラハムをもとに、神を信じる人の生き方について教えられたいと思います。アブラハムのことは旧約聖書の創世記12章から記されています。物語は神のみ告げによる旅立ちから始まります。創世記12章1~4節を読みしょう。

創世記12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

アブラハムは、神からの呼びかけられたとき、その声に従って、住み慣れていた土地を後にしました。それは生命の保証がない砂漠への旅でした。町中での安定した生活を捨て、神が示す新しい土地へと出発したのです。神の約束以外に、何も頼るものはありません。

私たちにも、それぞれ住み慣れた場所、慣れ親しんできた土地があると思います。気心の知れた家族や友人、また地域の中で生きてきました。しかし、そのような場所や環境から出て行かなければならない時もあります。少なくとも、まったく同じ生活が続くことはありません。それぞれのライフステージで、新しい出会いや別れがあります。仕事や住居が変わることもあるでしょう。

私たち自身は時間と共に変わってきます。私は、青年会に入ったころ先輩から「二十代はあっという間だから大事に過ごしなさい」と言われたことを思い出します。気づいたら30代後半です。私たちはそれぞれ、神によって定められた時に、この地上に生を受け、人生を送り、そして去っていきます。私たちはこの世界の「定住者」ではなく「旅人」なのです。

ご自分が旅をするときのことを想像してみてください。旅行するとき、やみくもに車を走らせたり、行き先を確認せずに電車に乗ったりするでしょうか。目的地に着くためには地図やガイドブックが必要です。私たちがどの方向に向かえば良いのか、それを示すものがあれば安心して旅を続けることができます。

人生の旅を続けていくための確かな道しるべを持つことができれば、なんと心強いことでしょうか。アブラハムは、神からの呼びかけを、確かな道しるべとして受け取りました。その道しるべが指すのは、今までの都会の安楽な生活ではなく、生きて帰れるかどうかも分からない砂漠の旅です。いかに今までの歩みと違ったとしても、もし道しるべが確かに「ここに進め」と言うならば、それに信頼して歩みださなければなりません。

何事でも、新しく踏み出すのは勇気がいることです。ときには、まわりから「変わった人」と見られることもあるでしょう。日本社会は特に、まわりの人たちと同じでないといけない、という雰囲気が強い社会だと言われます。周りの人たちに合わせることが美徳とされる社会です。

新しい道、新しい場所へと踏み出す時、それは時として周りの人との摩擦を生み出します。中には、心配して、元のところに留まるよう説得してくれる人がいるかもしれません。もちろん回りの人たちは親切心でアドバイスして下さることも多いでしょう。それは大事にするべきですし、その意見に耳を傾けるべきでしょう。しかし最後には、私たち一人ひとりが、決断しなければなりません。まわりの人が誰もついてこなくても、たった一人でも、進みだすのです。

アブラハムは、神からの呼びかけに応えて旅を始めました。確かな道しるべとして、神を信じたのです。私たちが何か示されて新しい場所、新しい生き方へと出発するとき、まわりの人は理解を示さないかもしれません。しかしそれが確かに神からの促しであると確信したならば、一歩を踏み出すべきなのです。

アブラハムは「どこに行くのかを知らないで、出て行った」のでした。つまり、今後の人生が具体的にどのようになるのか、まったく分からずに出て行った、ということです。自分が立ててきた人生計画をいったん白紙にして、ただただ神の導きに従って歩む決意をした、ということです。神はそのようなアブラハムの足をまもり、約束の地であるカナンの地に着きました。このカナンは今のイスラエルです。

到着した地は神が示した地でしたが、しかし、アブラハムは「他国人」のように生活したとあります。つまり、たとえ約束の地であっても、そこが自分の故郷・本拠地ではないわけです。本拠地というのは、骨を埋めるつもりで自分の生活の基盤を築く所です。家を建て、人生を組み立てていく場所です。しかしアブラハムは、あくまで他国人として留まっていたとあります。

日本にも、仕事や勉強などで外国の方々が来られています。しかし彼らは永久に日本に滞在する人たちではありません。滞在しているのは数日かもしれませんし、数十年かもしれません。どれだけ長く滞在するとしても、母国はほかにあります。いつかは自分の故郷に戻ることでしょう。

アブラハムは天幕生活をしました。天幕つまりテントを張ったキャンプ生活をしていたわけです。キャンプが好きな人はいると思います。日常を離れて特別な時間を過ごすことができます。しかしキャンプ生活は、それがそれほど楽しくても一時的なものです。いつかは山を下りて自分の家に戻ります。天幕生活をしていたアブラハムも、決してこの土地に腰を落ち着けたわけではありませんでした。

なぜでしょうか?それは、アブラハムは自分の故郷を、はるか遠く、別の場所に見ていたからです。都つまり天の御国です。彼が元々住んでいた土地ではありません。また、この地上での約束の地カナンでもありませんでした。この地上での旅を終えて、ついに帰る場所、神の都を遠く仰ぎみていたのでした。

アブラハムはまた、このように遠く神の国を見ながら生活していたからこそ、神の大きな約束を信じ続けることができました。アブラハムは不可能を可能にしてくださる神に委ねていました。神の約束を信じ、アブラハムが99歳、妻のサラが89歳の時に子供を授かりました。このように、実際この世で実現した約束もありました。また、「星の数ほどの子孫が与えられる」という約束は、アブラハムが生きている間ではなく、その後何年もかけて成就していきました。

アブラハムは将来必ず実現するという神の約束を信じ、喜んで受け入れたのでした。旅を続けるための経済的な見通しとか、旅の装備が整っているとか、旅先に頼れる知り合いがいるとか、そのようなことは第一に問題とすべきことではありません。どれも大切なものですが、必要なものは神が責任を持って与えてくださいます。

また、神はアブラハムの旅を支えるため、さらなる約束もしてくださいました。創世記15章です。

創世記15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」
15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」
15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

裂かれた獣の間を通るというのは、この時代の契約、つまり約束の形です。もし約束を破ったら、この獣のように引き裂かれてもよい、ということを表しています。注目したいことは、神ご自身が獣の間を通ったということです。アブラハムは何もしていません。神が一方的に約束してくれたわけです。そしてこの旧約聖書の契約は、新約聖書に出てくるイエス・キリストの十字架の先取りです。

イエス様がこの世に来られた最終的な目的は、十字架に掛かることによって、私たちの罪をすべて背負い、拭い去るためでした。罪とは、神ではないものを神とすることです。つまり、本当に信頼すべきお方、道しるべであるお方を信頼せず、この世の他のものに信頼を置くことです。山登りをするとき、また大海原を航海するとき、狂ったコンパスや壊れた羅針盤は命取りとなります。それと同じように、もし間違ったものを私たちの道しるべとするならば、その行き先はどうなるでしょうか。ローマ6:23にはこのようにあります。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

神の下さる賜物とは、イエス様とその十字架です。イエス様は私たちの罪、神を自分の道しるべとしないその罪のために、十字架に掛って下さいました。そしてその罪の罰を代わりに受けて、死んでくださったのです。そして死に勝利するために三日目によみがえられました。

その出来事はおよそ2000年前に起こりました。もちろん私たちは何もしていません。神の側から一方的に行動を起こしてくださったのです。私たちはただその事実を信じ、受け入れるだけなのです。神を自分の道しるべとしていなかった罪を悔い改め、イエス様の十字架の罪の赦しを自分のこととして受け入れるのです。

私たちに救いを与え、歩みを導いて下さる神のことば、この神の言葉は固くたちます。この神の言葉、神の救いの約束、神の導きに従うとき、私たちの歩みは確かなものとされるのです。私たちにはもともと、信仰の旅に踏み出す勇気などありません。しかし神の側から行動を起こしてくださり、旅を支えてくださいます。

私たちの信仰の冒険の第一歩目、出発の最初の一歩は、救いを差し出してくださった神の約束に信じ従う、ということです。この第一歩をまだ踏み出しておられない方がおられるでしょうか、もしおられるならば、神の約束に信頼し、道しるべとし、信仰の旅人として歩む決心をして欲しいと思います。すでにクリスチャンの方も、この世を信仰の旅人として歩む、その生き方をあらためて思い出すことができれば、と願っています。