2016年10月23日 一致

ピリピ4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
4:2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

ピリピ人への手紙を書いたのは使徒パウロです。使徒の働き16章に、ピリピの教会がどうやって始まったか記されています。パウロの働きを通し、特に女性の信徒たちが中心となって立ち上げられたようです。パウロはどこの教会に対してもそうですが、このピリピ教会にも大きな愛情を持っていました。しかし、そのピリピ教会に一つの問題が起こっていました。

ユウオデヤとスントケという名前が出てきます。二人とも女性です。どんな人たちでしょうか。3節を見ますと、ピリピの教会の重要なメンバーだったことがわかります。パウロは、この二人の女性信徒が、クレメンスという人や他の働き人と共に、福音宣教に協力してくれたのだと言っています。おそらくピリピ教会の礎を築いた人、と言えるでしょう。

クレメンスがどんな人かは分かりません。しかし、わざわざ「いのちの書に名の記されている」とあるので、すでに天に召されていたのかもしれません。クレメンス亡き後、二人はいよいよピリピ教会のために心を砕き、労したはずです。ユウオデヤとスントケはまさに、ピリピ教会を最初期から支えてきた、古参の信徒たちでした。

パウロはここで、わざわざその二人に対して「一致してください」と言っています。なぜそんなことを言わなければならなかったのか。つまり、二人はそのとき一致していなかったことが分かります。仲たがいをしていたのです。具体的なことは分かりません。考えられるのは、教会の方針をめぐって意見が合わなかったということです。

二人とも、もともとパウロと共にパリバリ働いていた人たちですしっかりとした考えを持ち、また行動力もあり、教会を建て上げて行くリーダーシップも豊かだったことでしょう。しかしだからこその難しさがあります。

二人が完全に同じ考え、同じ方針であるうちは良いのです。しかし人間二人として同じ人はいません。ピリピ教会のあり方、ビジョン、運営をめぐって、二人の間に違いがはっきりしてきたことでしょう。そのような時は大変です。両雄合い立たず、です。二人の不一致がピリピ教会に暗い影を落としていました。教会内で、ユウオデヤ派とスントケア派に分裂し、互いに反目するようなことになっていたのかもしれません。

ピリピ教会のそんな様子をパウロは人づてに聞いていました。ですから、ピリピ教会に向けた手紙の中で、その問題には触れずにはおれませんでした。ユウオデヤとスントケの名前がはっきり出されてしまって、二人にとっては不名誉この上ないことです。しかしパウロは、この際はっきりと指摘し、そして二人の間に和解がなり、一致がもたらされるようにと願い、記したのでした。

パウロはなぜ、ここまで一致することにこだわるのでしょうか。それは、パウロはイエス・キリストの福音を述べ伝える者だからです。福音を聴いて受け入れた人々は、イエス・キリストのからだなる教会を形作ります。教会において一致は何を差し置いてもまっさきに求めるべきことです。イエス様が次のように仰いました。

ヨハネ17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

イエス様は、十字架にかかられる直前、弟子たちに最後のメッセージを残されました。告別説教と言われます。その説教を終えて、感極まるようにしてイエス様は父なる神に祈られました。これはその祈りの一部です。

21節をご覧ください。「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」とあります。イエス様と父なる神はまさに一体でした。互いが互いの中にいるような親密な関係でした。イエス様は、ご自分に従う人々同士も、そのような関係を築くことを願っておられます。そしてそのような一致した人々が、「わたしたち」つまり、父なる神とイエス様の中に、その懐に包み込まれるように、と祈っておられます。

イエス様の願いは、私たちが一つとなることです。一致することです。その目的は何でしょうか。「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」。

私たち教会は何のために集まっているのでしょうか。それは神の救いを人々に告げ知らせるためです。神がイエス様を通して示された神の愛を、多くの人に知ってもらうためです。ではどうしたら知ってもらえるでしょうか。それは私たち教会が一致することによってです。

イエス様は、私たちが何か伝道イベントを開くことによって、とも、正しい教理を掲げることによって、とも言われませんでした。伝道イベントも教理も大切です。私たちも今週末イベントを開きますし、また、正しい教理について論じることも時に必要でしょう。しかし何よりも私たちが目指すべきことは、一致です。一致があってこそ、人々は神の愛を知ることができます。逆に言えば、一致を失うならば、どんなイベントであれ教理であれ、空しいものとなります。

教会はキリストのからだです。天に戻られたイエス様がどのような方か、私たちは教会の姿を通して世の人々に知らせます。イエス様が神と人との和解を実現させてくださったことを、その和解を受けた私たち同士の和解によって示します。

それぞれ体の部分は違えども、一つの体としてどれもなくてはならないものです。私たちはそれぞれ違いますが、その違う私たちが最善に結び合わされて一つのキリストのからだを作り上げます。そのような多様性を認め、互いに違いがあることを喜ぶことができる、それこそが真の一致です。

もともと私たちバプテストには、そのような多様性による一致を大切するところがありました。大切なのは、信仰と神学とを分けて考えることです。幹と枝とを分けると言ってもよいでしょう。私たちが一致できるのは、突き詰めるならば、イエス様を通して救われ、罪赦されたというその一点です。その救いを感謝し、神によって与えられた救い、和解の福音を分かち合うための集まり、それが教会です。

教会にはさまざま違った教理や神学があります。しかしそれらは信仰そのものではありません。教派によって教理が違い、私たち一人ひとりは違った神学を持っています。自分にとって神とはどのような方か、イエス様は、聖霊は、教会とは何か、一人ひとりに聞いてみたら一人としてまったく同じということはないはずです。育った教会や影響を受けたクリスチャン、また時代や地域性にも大きく左右されます。教理や神学は、それぞれの教会やクリスチャン一人ひとりの信仰の表現です。表現が違うからと言って信仰が違うのではないのです。

私たちは、他の人や教会を教理や神学だけで判断してはなりません。大切にすべきは、その人が、また私たち自身が、神の救いの喜びに生きているか、和解の福音に生きているか、教会を建て上げる言動をしているのか、そして何よりも、共に祈りあえるのか、ということです。イエス様は私たちがどんな教理が神学を掲げているかではなく、和解の福音、一致に生きているかどうかを見られます。

私自身、その点で体験したことがあります。私はキリスト教系の大学に入って、はじめて、他派のクリスチャンたちと関わることになりました。単に教理や神学書に描かれた他派ではなく、生きてクリスチャンとして歩んでいる他派の人たちです。最初は抵抗感がありました。しかしある時、気づかされたのです。

ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

自分の姿はまさに、このパリサイ人と同じだと気付かされました。他派のクリスチャンたちを、自分のあり方とは違うということで攻撃し、自分を正しいとしていました。自分の信仰の弱さを、その様にして覆い隠そうとしていたのでした。それは、初期のバプテストの姿とも大きく違っています。第一ロンドン信仰告白(1644年)の結語にはこのようにあります。

「わたしたちは一部を知っているにすぎず、多くのことを知らないので、ぜひそれを知りたい、と告白する。わたしたちが知らないことを神の言から好意をもって教えてくださる方がいれば、わたしたちは神とその人々に感謝するつもりである。だが、主イエス・キリストによって命じられていないと、わたしたちには思われるものを無理強いする者がいれば、わたしたちはキリストの力によって、人々のあらゆる非難と拷問をも受け入れようとし、あらゆる外的慰めを奪われてもよい。そして、神の真理の権利に少しでもさからい、あるいは、自分たちの良心に反するよりは、できることならば、千度死んでもよい。」

確固とした信仰の確信と、他者に開かれていることとは矛盾しません。私たちは神のみを神とします。自分のあり方を絶対化するのは、一種の偶像崇拝です。自分自身に与えられている確信をしっかり保ち、またその確信に従って生きつつも、自分とは異なる人たちにも寛容であることは可能なのです。それは深くイエス・キリストの福音に根差すからこその寛容です。

深く自分が神によって愛されていることを知っている人こそが、他の人も同じく神に愛されていることを知ることができます。表面的な違いにとらわれることのない、聖霊ご自身が教えてくれる一体感です。

一致は、イエス様を通してもたらされた福音にとって、おまけではありません。そうあればよい、という程度のものではないのです。神に背を向けていた私たちに、神は一方的にアクションを起こしてくださり、十字架の犠牲によって和解してくださいました。私たちはただそれを感謝して受け取り、神との和解が与えられました。ここに神の私たち人間に対する愛が表されました。

私たち教会は、神から愛されていることを世の人にお伝えする使命が与えられています。神の言葉はイエス・キリストという人となられました。それは私たちが具体的に目に見えるかたちで神の愛を知るためです。神の愛がイエス様として受肉されたように、イエス様を通して与えられた福音は私たちのただ中に受肉することを求めています。

私たちが語る福音は、和解と一致が実現しているところにこそ、力をもって現れるのではないでしょうか。今週末は伝道イベントがあります。その目的は福音宣教であることを私たちは確認しています。福音が述べ伝えられ、人々に届くために、何よりも私たちは一致を願い求めたいと思います。