2016年10月2日 教会、聖徒の交わりを信ず

使徒信条というものを皆さんご存知でしょうか。教派を問わずに大切にされ、礼拝の中でともに告白する教会も多いようです。

我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン

聖書が語る豊かな福音をすべて表している訳ではありません。しかし、ここから外れたらキリスト教ではないと言えるほど、私たちの信仰の幹の部分にあたる部分が凝縮されています。

その中心は、父・子・聖霊なる神についての告白です。特に子なる神、イエス・キリストについての告白が大部分を占めています。イエス様はかつて、「私を見た者は父をも見たのである」とおっしゃいました。また、復活の後、弟子たちに現れ、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。私たちの信仰の基は、何よりもイエス・キリストにあります。

しかし、この使徒信条をよく見ますと、あれっと思うようなことが書いてあります。最後の行には、「聖なる公同の教会・・・を信ず」とあるのです。教会を信じるという告白です。父なる神やイエス・キリスト、聖霊という三位一体の神を信じるのと同じく、またそれらと同じ重要性を持って、「わたしは教会を信じる」と使徒信条は告白するのです。

教会を信じるとはどういうことでしょうか。そもそも教会とは何のことでしょうか。今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。

マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

ある時イエス様は、一緒にいた弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」。すると弟子たちを代表してペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。キリストというのは救い主という意味です。イエス様、あなたは私たちの救い主ですという信仰の告白です。その告白を聞いたイエス様は言われました。「この岩の上にわたしの教会を建てます」。

「イエスはキリスト、救い主である」という、岩のように固い信仰告白の上に教会を建てるとイエス様は仰いました。私たちは、イエス・キリストは救い主です、と告白しバププテマを受け、教会の一員となります。この同じ信仰を告白する人たちの集まり、それが教会です。

そのような集まりがあるならば、大きな会堂がなくても、たとえ喫茶店で集まりを持ったとしても、それは立派な教会ということになります。逆に言えば、観光名所になるように荘厳な大聖堂だとしても、もしクリスチャンの集まりが開かれていないならば、それは決して教会ではないということになるのです。

日本語の教会という言葉は少し誤解を与えやすいように思います。教える会と書くからです。まるで何か教えを受ける場所、神について教えを受ける場所が教会である、というイメージです。確かに一面それは事実です。しかし教会は「聖書を学ぶお教室」に留まらない、もっと豊かなものです。

教会は、聖書のもともとの言葉ではエクレシアと書かれています。これは「呼び出された者たちの集まり」という意味です。誰によってでしょうか。神ご自身によってです。私たちはそれぞれの時期に、それぞれ違ったきっかけに、神によって呼び出されました。それはすべて、私たちに対する神のご計画のうちによるものです。

私たちは母の胎内にいる時から選ばれ、時至って教会に導かれ、救いの道に入れられました。私たち教会は、この世から選び分かたれた者たちの集まりなのです。

使徒信条には「聖徒の交わりを信ず」ともあります。聖徒とは私たちクリスチャンのことです。「聖徒」の「聖」という言葉は「聖書」の聖です。「聖なるもの」とか「聖い」という時に使う言葉です。私たちクリスチャンは神から選び分かたれた、聖なる者たちなのです。

私たちは聖なるものである、と聞いて、どのような気持ちがするでしょうか。私はとてもそんな者ではない、という思いを持たれるのではないでしょうか。「はい、私は聖なるものです」などという人がいれば、とても不遜な感じさえします。

しかし神ご自身が、「あなたは聖なる者だ」と仰います。神はイエス・キリストを通して、私たちは選び分かって下さいました。十字架を通して救いに与るものとしてくださいました。それによって、あらゆる罪はすでに赦されています。神は私たちのこと十分にご存知です。私たちの罪や欠けの多さを十分に知った上で、それにもかかわらず、「聖い」と見なしておられます。

私たちはつい、自分の姿ばかりを見てしまうかもしれません。自分の足りなさ、罪を繰り返し犯してしまう弱さを見てしまうかもしれません。しかしそこに留まってはいけません。私たちの罪がどれほど大きなものであっても、それを覆ってあまりある大きな赦しが、すでにイエス・キリストの十字架によって成し遂げられています。そのことを知っているのがクリスチャンです。

神が聖とされたものを、私たちの側から「そんなものではありません」と言ってはいけません。神が私たちを聖なる者、聖徒として下ったのですから、私たちはそれをそのまま感謝して受け止めるのです。ヘンリ・ナウエンは、神の赦しをそのまま受け止めないこと、それが最も大きな罪だと表現しました。

しかし、だからこそ、私たちは絶えず罪を悔い改めます。悔い改めとは後悔することとは違います。「あんなことをしてしまった、こんなこともしてしまった」と反省することではないのです。悔い改めとは、神が私たちの罪をすべて赦して下さった、その神の愛を思い出すことです。聖なる者としてくださったことに、感謝をもって立ち返ることです。この神の愛への立ち返りがなければ、いくら反省しても後悔しても、同じことを繰り返すことになってしまいます。

イエス様の救いを受け入れた人は、自分が聖徒であることをいつも思い出したいと思います。聖徒であると自覚することは、鼻高々になることではありません。決してなりようがありません。それは、私たちが頂いた救いが、自分の努力や善良さによるのではなく、まったく神からの一方的な働きかけによるものだからです。恵みだからです。

私たちが聖徒とされたのは神の恵みによります。そのことを本当に分かっている時、決して高慢になることはできません。ただ神の前に感謝の思いを持つだけです。それを忘れていくならば、自分自身の罪にばかり目が行って落ち込むか、他人と比べた自分の善良さを誇る思いが湧いて来たりします。

私たちはいつも神の恵みを思い起こしたいと思います。しかし具体的にどうすれば良いのでしょうか。日々聖書を読んだり、祈ったりすることも大切です。しかし私たちは一人でそのような信仰生活はほとんど不可能です。聖書を通読しよう、毎日30分祈ろうと一発奮起しても、三日坊主になることが多いだろうと思います。

神はそのことを良くご存知です。ですから神は、私たちを教会に集めて下さいました。礼拝に集い、交わりを保つことで、私たちは何者であるのかということを思い出すのです。互いに気に掛け合い、励まし合い、時に罪を指摘するような関わりを持ちます。その中で、私たちは自分が神によって選び分かたれた聖徒であることを忘れずにいることができます。教会とは聖徒の交わりであり、使徒信条で告白すべきほど大切なものです。

イエス様に「この岩の上に教会を建てる」と言われたペテロですが、彼は決して一人ではありませんでした。イエス様によって集められた弟子の一人でした。私たちは神と一対一で向き合うと同時に、集められた仲間として、仲間とともに、イエス様に従っていきます。その意味で、イエス様とペテロを含めた弟子たちは、教会のひな型と言えます。

私たちの教会は今、これからの歩みについて真剣に祈るべき時を通っています。私たち一人一人、み言葉を通して教会とは何かを確認し、また自らを省みつつ、この時期を過ごして参りたいと思います。