2012年12月18日 ダビデの子ヨセフ

クリスマスが近づいてきました。イエス・キリストの受胎告知として有名なのは、マリヤを主人公としたものです。多くの西洋の芸術の題材になっています。先週のクラシックカフェでもマリヤの頌栄、マニフィカートを聴きました。しかし今日は、もう一つの受胎告知を見ていきます。主人公はマリヤの夫となるヨセフです。それはマタイ福音書1章に記されています。

一般に、さあじっくり聖書に取り組んでみようと思えば、どこから読み始めるでしょうか。旧約聖書は分厚くて難しそう、だから新約聖書から読み始めようと思う人が多いでしょう。そして普通は最初のページから読み始めます。私たちが持つ新約聖書ではマタイ福音書が最初に置かれていますので、その第1章から読み始めようとするのです。しかし多くの人は、まさにその最初のページでパタンと聖書を閉じてしまいます。なぜでしょうか。それは、いきなり長々とした系図から始まるからです。それは1節から17節まで続きます。

マタイ1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

この1節から17節まで目で追っているうちに脱落してしまう人が少なくないはずです。どうしてこのように一見退屈な内容が、一番はじめの部分に置かれているのでしょうか。それを読み解くカギは、次の18節以降から記されること、つまりヨセフへの受胎告知です。

マタイ1:18a イエス・キリストの誕生は次のようであった。

18節はこのような言葉で始まります。「誕生」となっていますが、これは「起源」「そもそもの起こり」とも訳せる言葉です。「イエス・キリストの起源」について語ろうというのです。

いつもお話ししていることですが、イエス・キリストは名前と苗字の組み合わせではありません。イエスは名前ですが、キリストは一つの称号です。ヘブル語ではメシアとなり、救い主という意味です。イエスがキリスト、つまりメシアであることの、そもそもの起こりにつういて語りましょう、ということです。

ここでメシアという言葉のもう一つの意味合いを確認したいと思います。それは「油注がれた者」とくにダビデ王の家系に連なる王を意味します。ダビデとは、預言者サムエルによって油注がれ、イスラエル王国の礎を築いた人物です。聖書の時代の人々にとってダビデは特別な人物でした。つまり18節は、イエスがそのダビデ王に連なる王であることの起こりを語ろう、ということになります。

そうしますと、かぜん、17節までの系図の意味合いが浮かび上がってきます。今日は詳しく見ませんが、系図にはダビデ王の名前が5回も出てきます。ダビデ王こそ系図の一つの鍵となる人物です。そしてその系図の続きとして、18節からのヨセフへの受胎告知の物語が始まっていくわけです。具体的に見ていきたいと思います。

マタイ1:18bその母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

「聖霊によって身重になった」とあります。私たちはマリヤへの受胎告知をよく知っていますので、この言葉を普通に受け止めることができます。しかしヨセフはまだこの時点では知りません。マリヤが身重になったことを聴いたとき、ヨセフはどんな思いになったでしょうか。皆さんだったらどうしたでしょうか。

マタイ 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

「内密に去らせようと決めた」というのは、つまり離縁しようとしたということです。当時の結婚制度は少し今と違いまして、マリヤとヨセフは婚約以上、結婚未満という関係でした。法的には結婚しているのですが、一人前になるまではそれぞれ自分の家に住んだままなのです。ですから子供を授かることはあり得ないはずでした。

ヨセフは自分がその子の父でないことは分かっていました。ということは必然的に誰か別の父親がいることになります。ぜひヨセフの立場になって考えて頂きたいと思います。ヨセフはどんな気持ちになり、どんな気持ちで離縁しようとしたのでしょうか。

当時の律法では、不品行は石打による死刑とされていました。ただ、本人の意思によるものではない場合は無実とされていました。どちらであるか、裁判によって明らかにすることもできたはずです。しかしヨセフはそうしませんでした。公衆の面前でマリヤをさらし者にすることなどできなかったのです。ですからあえて、ことの真相を追求することなく、だまって離縁することに決めたのです。

聖書は、そんなヨセフのことを「正しい人」であると記しています。どういう意味でしょうか。ヨセフは決して律法に違反してマリヤを助けたのではありません。マリヤへの愛ゆえに律法を犯したのではないのです。ヨセフも律法を忠実に守る一人のユダヤ人でした。

マタイ5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

これは後のイエス様の言葉です。イエス様自身も一人のユダヤ人として律法を大切にされました。イエス様が激しく戦ったのは、律法の本来の精神から外れた、律法主義に対してでした。律法の精神を正しく理解して用いること、それが正しいことなのです。

マタイ福音書はおもにユダヤ人クリスチャンに向けて書かれました。マタイは、このヨセフの中に、ユダヤ人でありつつクリスチャンとなった者のあるべき姿を表しました。ユダヤ人が律法を受け入れることとイエス様を受け入れることとは両立するのです。私たちの社会にも、また教会にも、規律や決まり事があります。それらを乱用するならギスギスしたものになりますが、本来の精神を生かした形で用いるならば有意義なものになります。

さて、ヨセフへの受胎告知の続きを見ていきます。

マタイ 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

ヨセフへの受胎告知の場面です。この告知を聴いてヨセフは離縁することをやめ、マリヤを受け入れ、イエス様の父となる決意を固めました。これはヨセフにとって大きな挑戦でした。それは今後、疑惑の目に耐え続ける人生になるかもしれないからです。しかしこの決意は、神の計画にとって決定的な意味を持つ出来事でした。

それは、生まれてくる子が、ヨセフの子つまりダビデの子孫でなければならないからです。かつて神はダビデに次のような約束を与えました。

第二サムエル7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

この神の約束がついに果たされるのです。キリストであるイエス、つまりダビデ王に連なる王としてのイエスが誕生することになります。ですから、御使いは「ダビデの子ヨセフ」と呼び掛けているわけです。なお、マタイ2章には、マリヤとヨセフがベツレヘムに住んでいたと記されています。ベツレヘムはダビデ王の出身地でした。

それにしても、イエス様がヨセフの子孫であるというのは、現代の私たちの感覚では少々ピンと来ないところがあるかもしれません。ヨセフと生まれてくるイエス様との間に、直接の血のつながりがないからです。血のつながりを重んじるのは当時のユダヤの文化でも同じでした。この疑問を解くカギは、御使いが、「その名をイエスとつけなさい」とヨセフに語ったところにあります。

今も昔も、子供の認知をめぐって難しい問題があります。特に不品行に厳しい当時のユダヤではなおさらでした。父親が誰であるか、母親になる女性に尋ねるだけでは不十分です。不品行があったことが知られ、罰せられるかもしれないため、嘘をつくかもしれないからです。

その点でむしろ父親になる男性の側の証言が大切になります。なぜなら、本当に自分の子でなければあえて認知することはないからです。ですから、御使いが、「その名をイエスとつけなさい」とヨセフに語ったことは重要です。つまり、ヨセフは自分の子供に名前をつけるというかたちで認知を行ったことになります。ヨセフは単なる育ての親ではなく、法的にキチンと公に認められたかたちで、イエス様の父親になりました。ヨセフはこうして、イエス様がダビデの子孫として生まれるという、神の計画に従うことになりました。

さて、御使いからつけるように言われた「イエス」という名ですが、この名前には二つのニュアンスが込められています。一つは、この名前が当時、ごく一般的なありふれた名前だったということです。毎年こどもに付けられた名前ランキングというものがありますが、当時もしランキングがあれば間違いなく上位に入っていたような名前です。昔で言えば太郎君、一郎君といったところです。

生まれてくる子はダビデ王の子孫、油注がれた王です。何とか3世などという、いかつい威圧感のある名前が相応しいようにも思います。しかしそうではありませんでした。イエス様は天の王座から、私たちのただ中に来てくださいました。人々の注目を集める王宮ではなく、家畜小屋でお生まれになりました。私たち庶民の中に来てくださったのがイエス様なのです。

しかし同時に、イエスという名前にはある意味合いが込められていました。それは「彼が人々を罪から救う」という意味です。イエス様がこの名を持つことは、旧約聖書を自分たちの物語とするユダヤ人にとって大きな意味を持っていました。

マタイ2章にはイエス様の誕生とその後のことが記されています。そこでヨセフは、夢の中で神の語りかけを聴き、幼子イエス様のいのちを助けるためにエジプトに下っていきます。これは旧約聖書の創世記に出てくる同名の人物ヨセフの物語を思い起こさせるものです。旧約時代、ヤコブの息子ヨセフも夢を解き明かし、エジプトに下ることになりました。そこで総理大臣となって、飢饉で苦しむ父ヤコブ、つまりイスラエルを助けました。

物語は続きます。出エジプト記のモーセも、幼子を皆殺しにしようとするエジプト王から逃れ、その王が死んだ後に戻ってきます。同じように、新約時代のヨセフは、イエス様を殺すために2歳以下の男の子たちを殺したヘロデ王から逃れ、このヘロデ王が死んだ後に戻ってくるのです。そして、モーセの後継者として、モーセの働きを成し遂げてイスラエルを約束の地に連れて行ったのはヨシュアでした。ヨシュアはギリシャ語で言うとイエスとなります。

ユダヤ人にとって、モーセとヨシュアはまさに神の救いを思い起こさせる名前でした。 ユダヤ人クリスチャンは、このマタイ福音書のクリスマスストーリーを読み、神の救いの歴史を思い起こしつつ、イエス様がその救いを成就する方であることを理解しました。

マタイ 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

神が私たちと共におられる、これは大きな慰めです。当時のユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、神の救いを待ち望んでいました。神が側におられないと感じられることほど大きな不幸はありません。どんなに状況にあっても神がともにおられるならば希望があります。とうとう神の民は、約束されていた神の救いを見ることになりました。

しかしその救いはユダヤ人が思っていたように、ユダヤ人だけのものではありませんでした。モーセやヨシュアはユダヤ人たちを救い出しました。ダビデはユダヤの王でした。しかしイエス様はユダヤ人と異邦人の枠を超えて、すべての人の救いとなられます。マタイ1:23は有名なイザヤのクリスマス預言からの引用ですが、見比べてみたいと思います。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

最後の「その名を『インマヌエル』と名づける」という部分に注目して頂きたいのですが、ここには主語がありません。誰がなづけるのでしょうか。実はヘブライ語の原典では「彼女は名づける」となっており、ギリシャ語訳では「あなたは名づける」となっています。つまり、文脈に照らすならば、ユダヤ人がその名を「インマヌエル」と名付けるということになります。旧約聖書ではインマヌエルなる救い主は、あくまでユダヤ人のための救い主です。

しかしマタイ1:23では「その名はインマヌエルと呼ばれる」となっています。これはいわゆる受動態ですが、つまり不特定多数の人々がその名をインマヌエルと呼ぶ、ということになるわけです。細かなことですが、これは大きな違いです。ユダヤ人だけの救い主ではなく、信じるすべての人にとっての救い主になるということが、ここで宣言されています。そのことは、続くマタイ2章で、異邦人の博士たちがイエス様を礼拝しに来ることへとつながっています。

クリスマスは礼拝の時です。世の中では親しい者同士が集まり、プレゼントをし合う日となっています。それも神の恵みとして受け止めれば良いことでしょう。しかし何よりも、私たちのためにご自身を贈り物としてくださったイエス様への礼拝の時です。それはヨセフやマリヤのように、神に対する従順というかたちで表されます。そのことを覚えつつこの時期を過ごしてまいりたいと思います。